平行世界

午前中にはポコンポコンと、まだ悲鳴を上げる元気のあった校舎のトタン屋根は、今は真上にいる太陽を見上げるばかりで、午後の色あせた大気は見事に静寂を保っていた。
熱せられた空気は、ありもしない暖色を纏って、乾くが故に涙が滲むサクラの瞳の奥の網膜に、くたびれた橙色を映す。
秒速数十センチの速度で全身に汗を吹き出させながら、サクラは何千回も見てきた廊下に視線を載せた。
視線に意味はあるのかしら?
なんでもない廊下。
春にはまだ幼さを残した子供たちが走って、
「ああ、」
ちょっと笑う。
夏も、秋も、冬も、同じだった。
そのどんなシーンにもあって、でも、それは背景でしかないのに。
発光しているかのような大気のフォトンをいっぱいに受けて、乾いた木の材質で囲まれた空間は目の前にまっすぐ伸びて、実際はちょっとだけ蛇行して、今は背景以上の何かだった。
初めから意味を持ったものだったのか。
重ねた視線が、意味を持たせ、変質させたのか。
サクラはもう一度笑む。
そんな循環を退屈だと思わないくらいには、年をとったと。

懐かしい校舎を、一人歩く。

軽く左に方向を曲げる天井は、明らかに何かの水面の乱反射で、さらにぼうっと明るくなっており、こんな乾いた校内のどこにその光源があるのか、と不思議な感じがする。幻の水紋の在りかをキョロキョロと探して、サクラは別なものを見つけた。
伸びた空間の先から、物語の続きみたいに、カカシが歩いてくる。
もちろん、巡る思考に没入していたサクラよりはずっと先に、こちらに気付いて、それはその足取りで知れる。ほんの少し、いつもの歩行速度よりアップしている。
「そんな些細なこと・・・」
どうして、人間は正確に察知するのかしら。
どうして、見ただけで、そう、この視界の一部が変化しただけで。
何度でも言う。
背景にちょっとした違いができただけで、それは心拍をコントロールするのかしら。
「サクラ」
息に載せるついでに言ったように聞こえるのに、本当はそうじゃないって事も、わかる。
時間の冷徹な仕事は、秒をキチンと積もらせて、ゆっくりと互いのパーソナルスペースが接する。光の水紋は、その中に入ると想像していたより明るくて、その簡素な舞台装置の是の効果は、思いがけず強烈に敵に技が効いたような心地よさと似ていた。
カカシが立ち止まり、サクラもカカシの前に立つ。
すっかり成長したと思っている自分の肉体も、その上背も、カカシの前に来れば、ここを駆け回っていた頃のサイズに引き戻されてしまう。
そして、その感覚が、不作為の結果ではないことに、サクラは、今、ようやく気がついた。
「今、オレに起きている事件について」
「え?」
「知りたいでしょ?」
いつもの先生らしいセリフ。
ちょっとふざけて、相手を軽くからかって、でも、嘘や誤魔化しはない。
「教えてくれるの?」
カカシの顔を見上げて、そこにも水紋の柔らかな曲線があるのを見る。カカシも自分の顔に同じニュアンスを見ていると思うことは心地いい。
「うん」
ほら、といいながら、カカシがポケットに突っ込んだ右手を、サクラの目の前に突き出した。
「?」
「痛い」
「え?」
人差し指の脇が、スッと切れて血が滲んでいた。
「どうしたの?」
職業的クセで、思わずその手を取って、傷を見る。結構鋭いもので、皮を削ぐ感じに入っている。程度の割には痛いに違いない。
「カッコいい事で怪我したって言えればいいんだけどね」
「違うの?」
「書類で切っただけ」
「あら」
チューブに入った軟膏ぐらいはいつも携帯している。それを取り出しながら、カカシの装備を思い出していた。
カカシはその身の軽さが身上で、余計な装備は一切持たなかった。
暗部の時からの習慣なんだろうと思う。
怪我など云々するような任務ではないのだ。
遂行するか、失敗するか。
失敗は、怪我ではない。
死ぬだけだ。
サクラは思わず傷に落としていた目を上げた。
カカシとまともに目が合った。
カカシはずっとサクラを見ていた。
重ねた時間は日常なのに、真昼のスポットライトの効果で、いや、効果のせいにして、それは突如、非日常へと変化する。身体のどこかに押し込められていた感情が、素直にあふれ出てくる。失敗すればそのまま死に直結するような仕事をしていて、そんな任務を背負ってきた人が、指先の痛みを私に見せるのだ。
心が胸にあるならば、それはギュッと音を立てて、呼吸を阻害した。
「こんな傷・・・」
「?」
思わず口をついて出たセリフに、見下ろすカカシの目がちょっと見開かれて、その様は、愛おしい以外の何ものでもない・・・・
「舐めておけば治ります」
「!!」
カカシの目の輪郭が更に大きくなり、いつもは半眼に近いその造形が今は、その整った本質を粉飾できないでいる。それは、サクラみたいに、カカシの漏れ出た何かかもしれなかった。
あと一ミリ、何かが違えば・・・・
それは、大気の色だったり、廊下を満たす光量だったり、サクラの年齢だったり、在りかの不明な水紋だったり、カカシの良識だったり、この高温だったり・・・

二人の立場だったり。

サクラはゆっくりとカカシの傷をなめて、カカシはその手を自分の方に引く。
つられて引き寄せられたサクラの顔は、おりてきたカカシの唇に触れて、そのままカカシの指越しに、キスをした・・・・・

目の前の現実に重なる、そんな一ミリ違った綺麗な世界を脳裏に見ながら、サクラは軽く咳払いして、軟膏を取り出した。
「嘘に決まってるでしょう」
「ははは・・・」
何を照れているのか、見えている目の縁を若干赤くして、カカシが笑う。
「舐めるのは厳禁ですよ。感染症の恐れがあるし、血液を介して・・・」
真面目に言葉を続けようとして、カカシの沈黙に気付く。
カカシが、見たことのない表情でサクラを見ていた。
「先生?」
「あ、ごめん、いや、」
カカシは、手はサクラに預けたまま、あわてて説明した。
「立派になったなあと思ってさ。いや、違う、バカにしてるんじゃなくて、その、」
「・・・・・」
「医療忍者の顔してたよ・・・・」
なんと返していいかわからない。
いつもみたいに「褒めたって何も出ませんよ」という軽口が、出てこない。
成長した部下、立派な医療忍者・・・・・
そこに、今のサクラが欲しいものは、何もない。
だから黙ったまま、傷の手当てをする。
「怒ったの?」
今度はサクラの沈黙に、カカシが聞いてきた。
ほんの少し。
ほんの少し。
この世界を揺り動かす、あとほんの少しが欲しいのに。
サクラは、ちょっと強くカカシを見返した。
「あとほんの少し・・・」
「え?」
「あとほんの少し・・・」
「・・・・」
カカシの目を見る。
さっきの見たことがない表情が、今は「?」で覆われていた。
サクラはフッと息を吐き出して笑む。
「手当が遅れていたら、」
そこで、一回、思いを区切った。
「先生、死んじゃってたわ」
「!!!」
驚くカカシの腕をとって、今来た廊下を引き返す。
熱い空気を二人で割って、さっきの道を引き返す。視界の景色は変わらないのに、もうさっきまでの感慨はなかった。
引きずられるように歩くカカシは、自分の指を見て、
「大怪我してたのね、オレ」
と言う。
「そうよ、」
もう一度、呼吸する。
「カカシせんせい・・」
歩きながら、戻る視界のまま、サクラはちょっと足下を見た。
並んで歩くカカシの足。
同じ方向に進む、でも、並列する世界。
さっきまでは聞こえなかった蝉の声もして、
「しっかし、暑いねえ」
というカカシのつぶやきを、サクラは真上に聞いた。