雨の朝 1




手先が冷たい。
何かにつまずき、もつれるくらい疲れきった足元を見ると、同時に水のような鼻水が落ちた。
あわてて右腕の袖で拭く。
袖を濡らすそれは、鼻水じゃなくて、鼻血だった。
体液は時々濃くて、どれも鉄の匂いがする。
俺はまた誤認した。

止まらない。
俺は空を仰いで、ぬるいそれを喉の奥に押し込む。
曇天だ。
任務に慣れてきたとはいえ、昨夜は少し手こずった。
鼻血まで出して、朝帰り。
以前の俺なら、真っ先にイルカ先生の所に飛んでいった。
優しい優しいあの人は、変わらない眼差しで俺を見る。
彼の優しい手と空気で・・・俺は生きてこれたようなもんだ。
でも。

暗い空は雨を含み、たぶんまもなくそれを落とす。
風に雨の匂いがする。
と同時に、生臭い錆の匂いが上がってきた。
胃もか・・・・そう思ったとき、背後から声をかけられた。
  「満身創痍だな」
俺は振り返らない。
もう、疲れているのは身体じゃないことに気づいていた。
  「里だからいいけど、そんなに出血してたらやばいぞ」
カカシ先生が俺の前に回りこみ、俺を見る。
  「血の匂いはダメだ」
俺はホッとする。
俺の身体じゃなく、あくまで忍の立場からものを言うカカシ先生に。
  「先生、どのくらいからわかった?」
少しだけ笑みが浮かぶ。
  「里の外だよ。俺も任務帰りだもん」
俺と並んで歩く。
あんなに遠かったけど、今は俺と並んで・・・歩く。
  「そんなに酷い?」
  「うん。もし俺が敵なら、お前、恰好の標的(笑)」
  「ははは・・・良かった、先生が仲間で」
何気に言ってから、ぞっとした。
本当だ。
先生は手配書に載るくらいの恐ろしい忍者なんだ・・・
カカシ先生を見上げる。
  「ん?」
と、先生も視線をよこしたが、
  「ダメだ、ナルト」
  「え?」
  「止血したほうがいいな」
  「・・ああ」
さっきから鼻水みたいに盛大にすすりあげていたけど、実は吐き気も限界だった。
  「報告書出した?」
  「誰もいない受付に置いてきたってば」
  「んじゃ、俺んちに来いよ」
そう言って、俺の前を行く。
頭のすみを、ちょっとだけイルカ先生の顔がよぎる。意味なく躊躇している俺を、カカシ先生が振り向く。
  「ナルト!!」
  「ああ、今行くってばよ!!」
先生を追って駆け出した俺の頬に、冷たい雨が落ちてきた。




先生の家は初めてじゃない。
チームが出来たての頃は、よく押しかけたもんだ。
誰の誕生日、初任務うちあげ、お祭りだ、クリスマスだ・・・・
サクラちゃんに引きずられて、でも、楽しい毎日だった。
雨がだんだん酷くなり、古い平屋に着いたときは、本降りになっていた。
先生がガラガラと飾りガラスの引き戸を開ける。
空気が重く湿った玄関はわずかに埃っぽく、この家に、数日間人気がなかったことを示していた。
  「長期だったの?」
  「半月」
靴を不精して蹴り上げて脱ごうとした先生は、うまく脱げず、そのまま廊下を土足で数歩、歩いた。泥まじりの雨水が跳ね散る。
笑ってる。
  「先生、バカ」
  「ははは・・」
俺もつられて笑って、ちょっと血を吐く。
  「おっと、お前の処置!!」
カカシ先生は、俺を抱えるようにすると、また足で、ふすまを開けた。
  「先生って意外に行儀わるいってばよ」
  「そうか?誰も見てないしな」
  「そういう問題じゃないって。サクラちゃんに怒られるってばよ」
  「怒るか?じゃ、サクラが来たらちゃんとするよ」
畳の部屋の向こうに縁側がある。先生はそこに俺を座らせた。
  「先生、サクラちゃんはもう女の子じゃないよ」
  「へ~」
医療用具を取りに行った先生は、遠くで間延びした返事をした。
  「だから、こんなむさくるしい男所帯になんか来ないから安心しろってば」
  「お前も、意外にキツイこと言うよね」
戻ってきた先生は俺と並んで座る。
先生は、フル装備のまま、俺の怪我や体調を見てくれた。
先生が動くたび、重装備の音がする。
口布は下ろしていて、その整った顔を俺に見せている。
出会った頃はおっさんだと思っていたけれど、こうしてみれば、ぜんぜんおっさんじゃない。
  「先生」
  「なんだ?」
  「加齢臭って言ってごめんてば」
  「え?いつ?」
あ、いけね。
先生に直接言ったわけじゃなかったんだっけ。
  「なんでもない」
  「お前、やっぱり、酷いやつ決定だな」
処置を終えた先生は、立ち上がると「湯船は無理だろうけど、汚れ落とせよ」と言った。
奥に行きながら、「そんなににおいってすんのかな」と、独り言を言っていて、俺はまた笑った。



遠くから、カランという、何かが落ちた音と、湯を入れる静かな低い音が聞こえてきた。
風呂をたててくれているらしい。
やがて戻ってきた先生は、フル装備から、軽装備くらいには脱いでいた。
俺の隣に来る。
先生の髪が温かく湿っていた。
  「すぐだから待ってろ」
そう言うと、自分も上を脱ぎ始めた。
  「俺も、やっちゃったもんね」
なにかと見れば、右肩にスッと一筋の刀傷。
綺麗な傷なので、たいしたことは無いんだろうけど・・・・血の匂い、全然しなかった。
  「結構深いな・・・先生らしくねぇってばよ」
  「うん。これ味方の刀」
  「え?」
  「隣で闘ってた仲間の刀が折れて飛んできたんだ。さすがに避け損なった」
っていうより、先生だから、避けて、これで済んだんだろう。
そのあとは、どっちの傷がとか、あそこの地理はどうで、など、任務の話に流れていった。
朝なのに、垂れ込めた雲のせいでどんよりと暗く、雨はやむ気配も無い。
ザー-ーッという雨全体の音と、近くの庭石や植え込みに当たるポツポツという音がする。先生の静かな低い声が、雨の音と混じり合う。
任務の疲れも手伝って、俺は頭の後ろを引っ張られるように、眠りの縁に立つ。
俺の口数が少なくなって、カカシ先生もぼんやり庭を見て・・・
  「もういいんじゃない?」
不意の先生の声に覚醒する。
  「え?」
  「風呂」
  「ああ」
先生は、俺を待つ気らしく、俺を促すと、自分はまたぼんやりと庭を眺めている。
風呂に行くふりをして、俺はその背を盗み見る。
天気のせいだろうか、灰色の景色に溶け込むようなその様に、なんとなく焦燥を感じて、俺は縁側に戻った。
  「先生、一緒に入ろう」
  「え?」
伏せていた目を上げる。驚いたように少しだけ見開かれた眼の、その造詣の完璧さに、俺は改めて見入った。
瞳に雨が映って、俺の心臓が拍動する。
師弟関係の、ただ背中を流す意図で言った発言が、俺の中で別な意味を持ちそうで、その心情を俺はうまく隠せなかった。
しかし、カカシ先生は、俺の言葉に違和感を感じなかったらしい。
  「あ、うん」
一瞬俺の胸元に目を落として、それでもすぐにそう返してくれた。
  「あんまり騒ぐなよ。傷に触るから」
そんなことを言う。俺が風呂で遊ぶようなガキに、まだ見えてるところが、逆に愛しい。
フロに向かいながら、俺も憎まれ口を叩く。
  「先生こそ、滑って転ぶなよ。骨折が寝たきりにつながるってば」
反応がなかったので振り返る。
先生は、縁側の方を見ていて、俺の失礼な発言に気づいていないようだった。
薄暗い畳の部屋で、俺は立ち尽くす先生を見る。
  「どうした?」
俺は先生の横に立つ。
  「いや・・・」
ほの暗いなかに外の明るみが射し、先生の顔に印象的な影を作る。

ああ・・・・

俺は心の中で嘆息した。
もう、わかっちまった。
俺は先生が好きだ。
イルカ先生に対する後ろ暗い感じも、時々カカシ先生を見て切ない感じがするのも。
俺は、今、やっと自覚した。

この人が、好きなんだ・・・



2008.02.05.