鳴門の案山子総受文章サイト
手先が冷たい。
何かにつまずき、もつれるくらい疲れきった足元を見ると、同時に水のような鼻水が落ちた。
あわてて右腕の袖で拭く。
袖を濡らすそれは、鼻水じゃなくて、鼻血だった。
体液は時々濃くて、どれも鉄の匂いがする。
俺はまた誤認した。
止まらない。
俺は空を仰いで、ぬるいそれを喉の奥に押し込む。
曇天だ。
任務に慣れてきたとはいえ、昨夜は少し手こずった。
鼻血まで出して、朝帰り。
以前の俺なら、真っ先にイルカ先生の所に飛んでいった。
優しい優しいあの人は、変わらない眼差しで俺を見る。
彼の優しい手と空気で・・・俺は生きてこれたようなもんだ。
でも。
暗い空は雨を含み、たぶんまもなくそれを落とす。
風に雨の匂いがする。
と同時に、生臭い錆の匂いが上がってきた。
胃もか・・・・そう思ったとき、背後から声をかけられた。
「満身創痍だな」
俺は振り返らない。
もう、疲れているのは身体じゃないことに気づいていた。
「里だからいいけど、そんなに出血してたらやばいぞ」
カカシ先生が俺の前に回りこみ、俺を見る。
「血の匂いはダメだ」
俺はホッとする。
俺の身体じゃなく、あくまで忍の立場からものを言うカカシ先生に。
「先生、どのくらいからわかった?」
少しだけ笑みが浮かぶ。
「里の外だよ。俺も任務帰りだもん」
俺と並んで歩く。
あんなに遠かったけど、今は俺と並んで・・・歩く。
「そんなに酷い?」
「うん。もし俺が敵なら、お前、恰好の標的(笑)」
「ははは・・・良かった、先生が仲間で」
何気に言ってから、ぞっとした。
本当だ。
先生は手配書に載るくらいの恐ろしい忍者なんだ・・・
カカシ先生を見上げる。
「ん?」
と、先生も視線をよこしたが、
「ダメだ、ナルト」
「え?」
「止血したほうがいいな」
「・・ああ」
さっきから鼻水みたいに盛大にすすりあげていたけど、実は吐き気も限界だった。
「報告書出した?」
「誰もいない受付に置いてきたってば」
「んじゃ、俺んちに来いよ」
そう言って、俺の前を行く。
頭のすみを、ちょっとだけイルカ先生の顔がよぎる。意味なく躊躇している俺を、カカシ先生が振り向く。
「ナルト!!」
「ああ、今行くってばよ!!」
先生を追って駆け出した俺の頬に、冷たい雨が落ちてきた。
先生の家は初めてじゃない。
チームが出来たての頃は、よく押しかけたもんだ。
誰の誕生日、初任務うちあげ、お祭りだ、クリスマスだ・・・・
サクラちゃんに引きずられて、でも、楽しい毎日だった。
雨がだんだん酷くなり、古い平屋に着いたときは、本降りになっていた。
先生がガラガラと飾りガラスの引き戸を開ける。
空気が重く湿った玄関はわずかに埃っぽく、この家に、数日間人気がなかったことを示していた。
「長期だったの?」
「半月」
靴を不精して蹴り上げて脱ごうとした先生は、うまく脱げず、そのまま廊下を土足で数歩、歩いた。泥まじりの雨水が跳ね散る。
笑ってる。
「先生、バカ」
「ははは・・」
俺もつられて笑って、ちょっと血を吐く。
「おっと、お前の処置!!」
カカシ先生は、俺を抱えるようにすると、また足で、ふすまを開けた。
「先生って意外に行儀わるいってばよ」
「そうか?誰も見てないしな」
「そういう問題じゃないって。サクラちゃんに怒られるってばよ」
「怒るか?じゃ、サクラが来たらちゃんとするよ」
畳の部屋の向こうに縁側がある。先生はそこに俺を座らせた。
「先生、サクラちゃんはもう女の子じゃないよ」
「へ~」
医療用具を取りに行った先生は、遠くで間延びした返事をした。
「だから、こんなむさくるしい男所帯になんか来ないから安心しろってば」
「お前も、意外にキツイこと言うよね」
戻ってきた先生は俺と並んで座る。
先生は、フル装備のまま、俺の怪我や体調を見てくれた。
先生が動くたび、重装備の音がする。
口布は下ろしていて、その整った顔を俺に見せている。
出会った頃はおっさんだと思っていたけれど、こうしてみれば、ぜんぜんおっさんじゃない。
「先生」
「なんだ?」
「加齢臭って言ってごめんてば」
「え?いつ?」
あ、いけね。
先生に直接言ったわけじゃなかったんだっけ。
「なんでもない」
「お前、やっぱり、酷いやつ決定だな」
処置を終えた先生は、立ち上がると「湯船は無理だろうけど、汚れ落とせよ」と言った。
奥に行きながら、「そんなににおいってすんのかな」と、独り言を言っていて、俺はまた笑った。
遠くから、カランという、何かが落ちた音と、湯を入れる静かな低い音が聞こえてきた。
風呂をたててくれているらしい。
やがて戻ってきた先生は、フル装備から、軽装備くらいには脱いでいた。
俺の隣に来る。
先生の髪が温かく湿っていた。
「すぐだから待ってろ」
そう言うと、自分も上を脱ぎ始めた。
「俺も、やっちゃったもんね」
なにかと見れば、右肩にスッと一筋の刀傷。
綺麗な傷なので、たいしたことは無いんだろうけど・・・・血の匂い、全然しなかった。
「結構深いな・・・先生らしくねぇってばよ」
「うん。これ味方の刀」
「え?」
「隣で闘ってた仲間の刀が折れて飛んできたんだ。さすがに避け損なった」
っていうより、先生だから、避けて、これで済んだんだろう。
そのあとは、どっちの傷がとか、あそこの地理はどうで、など、任務の話に流れていった。
朝なのに、垂れ込めた雲のせいでどんよりと暗く、雨はやむ気配も無い。
ザー-ーッという雨全体の音と、近くの庭石や植え込みに当たるポツポツという音がする。先生の静かな低い声が、雨の音と混じり合う。
任務の疲れも手伝って、俺は頭の後ろを引っ張られるように、眠りの縁に立つ。
俺の口数が少なくなって、カカシ先生もぼんやり庭を見て・・・
「もういいんじゃない?」
不意の先生の声に覚醒する。
「え?」
「風呂」
「ああ」
先生は、俺を待つ気らしく、俺を促すと、自分はまたぼんやりと庭を眺めている。
風呂に行くふりをして、俺はその背を盗み見る。
天気のせいだろうか、灰色の景色に溶け込むようなその様に、なんとなく焦燥を感じて、俺は縁側に戻った。
「先生、一緒に入ろう」
「え?」
伏せていた目を上げる。驚いたように少しだけ見開かれた眼の、その造詣の完璧さに、俺は改めて見入った。
瞳に雨が映って、俺の心臓が拍動する。
師弟関係の、ただ背中を流す意図で言った発言が、俺の中で別な意味を持ちそうで、その心情を俺はうまく隠せなかった。
しかし、カカシ先生は、俺の言葉に違和感を感じなかったらしい。
「あ、うん」
一瞬俺の胸元に目を落として、それでもすぐにそう返してくれた。
「あんまり騒ぐなよ。傷に触るから」
そんなことを言う。俺が風呂で遊ぶようなガキに、まだ見えてるところが、逆に愛しい。
フロに向かいながら、俺も憎まれ口を叩く。
「先生こそ、滑って転ぶなよ。骨折が寝たきりにつながるってば」
反応がなかったので振り返る。
先生は、縁側の方を見ていて、俺の失礼な発言に気づいていないようだった。
薄暗い畳の部屋で、俺は立ち尽くす先生を見る。
「どうした?」
俺は先生の横に立つ。
「いや・・・」
ほの暗いなかに外の明るみが射し、先生の顔に印象的な影を作る。
ああ・・・・
俺は心の中で嘆息した。
もう、わかっちまった。
俺は先生が好きだ。
イルカ先生に対する後ろ暗い感じも、時々カカシ先生を見て切ない感じがするのも。
俺は、今、やっと自覚した。
この人が、好きなんだ・・・