あと1センチだけ 1




ドアを開けたら先生がいた。

  「は・・・あ、気がつかなかったってば・・・」

もう、少しだけ暮れかかっている、でもまだ明るい空を背に、いつもの風体で先生は通路の手摺りに寄りかかっていた。
  「うん、まあね」
いつものようにそう言って、でも、このパターンは初めてだ。
俺はスニーカーをつっかけて、玄関の外に出る。
二階から見る街は、暑かった昼からゆっくりと夜に向かいはじめている。
行き交う人や走り去る子供がいて、コトコトと音がしそうな里の人の温かな時間が流れているようだった。
ひとりぼっちの俺は、でも、この風景を見ていると、独りであることを忘れてしまう。
こんな時間に家にいるときは、いつも手摺りに肘をついて、みんなが家に入ってしまうまで眺めていた。

でも、今日は違う。

先生に会いに行こうとしたら、もう先生がいた。
俺がいつも寄りかかっている手摺りに、寄りかかって。
俺の後ろでドアが閉まり、それを合図に、二人前後してアパートの階段を下りる。
  「先生ってば、迎えに来てくれたのか?」
  「ああ。時間あったし」
そうか、といいながら、不思議に気分は高揚していた。
まだ暖かい昼の空気を残す路地を歩く。
立ち並ぶ家の窓が、ようやく明るさを増して見えてくる。
東の空は透明な群青色を濃くしていたが、ときどき振り返ると、西の空はまだハッとするほど明るかった。
  「どうした?キョロキョロして(笑)」
不意に言われて、隣を見上げる。
先生の目が、本当に優しげに俺を見ていて、やっぱりこんなパターンは初めてだ。
  「いや・・・空が・・・綺麗だなって・・・」
  「ああ・・・そうだな」
先生も、上を見る。
その顎の上げ方が無防備で、一瞬、なにか閃くものを感じたが、それだけだった。
  「ガラスみたいに透明な色だな」
奇しくも、先生は俺の思っていることと同じ事を、東の空につぶやくと、それきりまた会話は途切れた。
鎮まりきらない昼のざわつきが、そこかしこに残っていて、二人の間の沈黙も気にならない。
夕餉の様子が開いた窓から流れて、その匂いに鼻を動かす。
笑い声が混じって、瞬間そこに立ち止まりそうになる。
寂しいからじゃなくて、気がつかされたからじゃなくて、純粋に、それを聞いていたかったから。
  「ナルト」
はっと先生を見て、また目がしっかりとあってしまった。
瞬間、周囲の音がパッと散って、
耳が塞がれてしまったように、もう、ここに二人しかいない・・・・
  「腹、減ってない?」
先生が言う。
たぶん、減っていた。
でも、食欲は全くなかった。
ただ、この空気を壊したくなくて、ちょっと逡巡する。
  「俺、時間あるからさ」
先生はそう言って俺の返事を待っている。
  「減ってない」
俺の優しい気持ちは、身体の中の物の怪に負ける。
  「それより、早く・・・」
俺の何かに反応して、先生の目が、ちょっとだけ見開かれる。
なぜか、俺の心の中は、先生に対する後ろめたさで一杯になり、でも、続くセリフは止められない。
  「早く・・・したいんだ・・・」
  「・・・あ、ああ、わかった」
掠れたような声で先生が応じ、急に周りの音が聞こえ出す。
いつもの夕方、いつもの町並み。
いつもの人々の生活のざわめきがあって、俺と先生の関係は、唯一、異質だった。





先生の家に着く頃は、もうだいぶ暗くなっていた。
先生が古い木戸を開け、軋む微かな音が静かな路地に響く。俺は、心臓の拍動を強めに感じながら先生に続く。
無人の平屋は、その窓に明かりを灯していた。
  「あれ・・・明かり・・」
  「ああ」
先生は喉の奥でそう言うと、そのまま動きを止めず玄関に向かう。
  「どうせ戻るってわかってるんだからさ」
  「あ・・・ああ・・」
  「それに暗いところに帰るのも、なんだし・・・ね」
玄関の引き戸を開けて、明るい中に入る。
そういえば、先生も一人だった・・・・
暮れる道々、二人を近づけていたのは、その状況だったのだろうか。
拍動は、静かに、静かに、俺の中で続いている・・・・
いや、と俺は首を振る。
俺だけの、
多分、俺だけの感情・・・・
状況が同じというだけで、その本質まで同じなんてこと、あるわけ・・・
  「ナルト」
  「!・・・なに?」
  「風呂・・・入る?」
先生が俺の方を見ずに、縁側のガラス戸を動かしている。
室内には生暖かい空気が淀み、開け放たれた縁側から、幾分か涼しい風が侵入してきた。
  「あ、ああ・・・入る」
こんな暑さじゃな、と言いながら、先生が奥へ消える。
その背を見送って、俺は大きく息をついた。
いつもの事が、なぜか今日は違って感じる。
先生が迎えに来てたからか・・・・?
いや、違う。
もっと・・・・こう・・・
  「どうした?ナルト(笑)」
いつの間にか戻ってきた先生が、俺を見て笑う。
家に入っても、先生は覆面も取らず、ジャケットを脱いだだけ。
  「なんでもないってば」
  「そう?今日はなんか大人しいな」
先生だって変だ。
そう思ったが、言えなかった。
そんな突っ込みを、させないような痛々しさが、先生にはあった。
  「カエルが鳴いてるな」
俺と並んで、先生が縁側に立つ。
部屋の明かりで二人の影が、庭に落ちる。
遠くでカエルが鳴いて、時折、気持ちいい風が肌を撫でた。
二人とも、何か言いたげで、でも、結局、無言のまま時が過ぎる。
前にも後ろにも進みたくないような、そんな気分が、俺の内側を塗り固めていた。
庭に落ちる影が、暮れるにつれて濃くなっていく。
二人の影が、俺の右手と、ちょっと後ろに立っている先生の左肩でくっついているのを見る。

影は自由だな。

そんなバカな思いつきでも、今は本気で、その自由さがうらやましかった。
  「一緒に入るか?」
そんなことを言う先生は、やっぱりいつもの感じじゃなくて。
ちょっと前の俺なら、即答でOKしただろう提案も、今は、何かを先延ばしにするように、
  「はははっ・・・いいよ。一人で入る」
と返してしまった。
俺のセリフが闇に収束し、カエルの声は、今は合唱になっていた。
先生がどんな顔をしたのかは、わからない。
俺は見なかったし、先生も、もう、なにも言わなかった。



2010.07.03./07.04/07.14.