花冷え 3




当時、病院とは名ばかりの家畜小屋(陰でそう呼ばれていた)から、離れることはできたものの、検査通院をしなければならず、テンゾウは、そんな自分の人生をやっと諦観できた頃だった。
春浅い病院の周りは、それでも、これからはじまる季節に対する生き物の期待に満ちた囀りや蠢きに満ちている。まだ、身柄の小さな紋白蝶が、花を求めて飛び急ぎ、それを目で追うテンゾウの気を紛らわせた。
通院のルーチンワークの中で、多分、色々、見聞きした。
しかし、いろんな事が繋がったのは、少ししてからだ。
そのときは、ただ、目の前のことを無関心に、記憶として取り入れているだけだった。





経口したほうが安全だと聞いていた薬を、いきなり静注されそうになって、さすがに看護士に文句を言う。
  「何ですか、これ!いつもは」
  「そう、いつもは飲みますよね。でも、これはさらに改良された検査薬だそうです」
検査がはやく終わりますよ、と言いながら、止めようにもしようがない勢いで、ブスリと針を刺されてしまった。実際は、経口代謝されない分検査値がはっきり出る、という、実験者のための改良で、テンゾウのためでは無かった。
案の定、数十分も経たないうちに身体がむくみ、熱が出る。
この子は怪物だからという、昔聞いた言葉が脳裏をかすめる。
それはどうかわからないが、そう思ってこんな薬を投与する方が化け物だろうと、朦朧とした頭で毒づいた。その余裕に、自嘲する。
つまり、自分は化け物に違いなかった。

熱が引かず、結局、その日は入院することになった。
熱に輾転反側していると、廊下を駆ける慌ただしい足音がいくつか重なる。
以前はいつも聞いていた音だ。
手酷くやられた同胞の忍者が運び込まれた時の音。
入院患者が危篤になったときの集合の音。
大きな任務の直後としばらく後には、よくこの音を聞いた。
自分がこうしている間にも、いろんな人生が展開しているんだ・・・・・
と、部屋のドアが開く。
責任者が様子を見に来たが、カルテらしきものを乱暴にめくって担当者と話をするだけ、テンゾウは目に入っていないかのようだった。仮に話しかけられても、碌に返事もできなかったろう。
やがて、熱に歪む視界を閉じて、テンゾウは眠りに落ちた。

・・・・・・・・・

気づくと、もう、人の気配もない。
自分のいる病室だけではなく、病院全体に人の気配がなかった。
ふっと額に手を当てる。もう熱は下がっていた。
すぐにでも帰りたいところだったが、肝心の検査が終わっていない。また、明日にでも、検査の続きが待っているのだろう。
  「さすがに今度は飲み薬かな(笑)」
そのような運びは、本人の都合度外視だということを、長い入院生活で、テンゾウは知っていた。
薄暗い室内から、ぼんやりと戸外の並木を見上げる。
梢の芽は、もうほころんできていたが、それがサクラとは違う花を咲かせることを、ついこの間までここに住んでいたテンゾウは知っていた。
  「サクラみたいな花なんだけど・・・・」
まだ冷える薄墨色の空に、透き通るようなピンクの花弁。
・・・・でもサクラじゃない。
その暗喩が、何を意味しているのか、そのときはわからなかった。

かいた汗が気持ち悪く、ベッドを降り、浴室に向かう。
勝手知ったる家畜小屋である。
夜間のシャワーは原則禁止だが、ボイラーのスイッチ操作を知っている者は、誰彼と無く勝手に入っていた。
任務の終わった上忍が、仲間の見舞いがてら入っていったり、夜間勤務者が、勤務交代時に使っていたりした。テンゾウのように日中入り損ねた患者が使ったりすることもある。
誰も使っていなければ、通路突き当たりのそこは暗いはずだったが、入り口からは煌々とした蛍光灯の無機質な明かりが漏れていて、テンゾウは一瞬、迷った。
先客がいても問題はないが、あまり顔を合わせたい気分でもない。戻ろうかとも思ったが、廊下に漏れるのは明かりばかりで、もしかしたら、誰かが消灯を忘れただけなのかもしれない。
まるで気配がなかった。
使うと決めて、シャワー室に入った。

と、
並んだシャワーブースの一番奥から、僅かに湯気が立ち上っている。
もちろんシャワーの音はしない。
なんだ、先客か、気づかなかったと思い、でも、ブースで遮られているから、顔を合わせることもない。
キュッと音をさせてコックをひねる。
勢いよく出た湯と共に、実戦慣れしていないテンゾウにもわかるほど、先客が驚いた気配がした。
はっと微かに息を飲む音と、身体を震わせたような僅かな空気の動揺・・・・
  「驚かせてすみません」
相手と不必要な関わりを持ちたくなかったので、あえてそう声をかけた。
  「いえ」
返事はすぐに返ってきた。自分と同じくらいの若い男のようだった。
テンゾウは、シャワーの心地よい温度に目を閉じた。
余程経ってから、奥の男が、ブースの外を歩いて行く音がした。細く開いたシャワーカーテンの間から、何とはなしに、男を見る。
白髪が見えて、年齢を誤認した、と思った。脱衣所で衣擦れの音がして、男が通路に歩き去る。
テンゾウもさっぱりした気持ちで、病室に戻った。





居酒屋で、脳裏をよぎったのは、何のことはない昔の、そんなありふれた夜だった。
テンゾウは自室のベッドに横たわり、居酒屋でのカカシを思い浮かべる。
鄙びた居酒屋の、黄色っぽい照明の下、綺麗なカカシの顔と・・・鈍く光る銀髪。
そして、シャワールームの蛍光灯の下で、白々しく光っていた髪。
気づいてしまえば、簡単に繋がる糸は、テンゾウが考えることをやめようとしても、もう、どうしようもない。
ちらりと見えたのは、髪ばかりではない、塞がったばかりと思しき、脇腹の三筋の傷。
あの夜、テンゾウの入室にも気づかず、驚いた気配を垂れ流した「一般人」は、
  「カカシさんだったんだ・・・」
と気づく。
忍者からはあまりに遠いその様子に、カカシが宙に描いた傷がなければ、それらがテンゾウの頭の中で繋がることは永遠になかったろう。
そして、テンゾウはさらに思い出したのだ。
もう一人の人間に対する醜聞を。



2009.06.11.