春泥




春はやっぱり特別な季節だ。

地面に顔を近づける。
ナルトは、水をたっぷり含んだ、ひなたくさい土の軟らかいにおいを、思いっきり吸い込んだ。
土くれの表面は、表面張力で水を纏い、それがキラキラと、まだ浅い春の光を集めている。
顔を上げると、厳しかった季節から解放された景色は、淡いパステル色に変わっていて、ナルトはその暖かな色に目を細めた。

柔らかな道を歩く。
もう子供じゃない身体の重さは、一歩ごとにジュッという音をさせて、サンダルの踵を沈ませる。
道に併走する小川は、夏には水量も減って生い茂る野草に埋もれるのに、今は、鈴の音のような可憐な音をさせて、勢いよく流れていた。
素肌に羽織っただけの白いシャツは、まだ少し肌寒い風を孕み、ナルトは遠くの山を見て、軽く息を吐く。
  「先生・・・」
青く霞む連山に、思い出すのはカカシのこと。
今、カカシは、公務で数日前から里を出ていた。

いろんな事があった。
お互い、何度も死にそうになって、それでも気持ちを曲げずに生きてきた。
思い通りに行くこともあったし、そうじゃないことも多かった。
でも、
たぶん、いろんな事は、初めから落ち着く場所をわかっていたんだと、ナルトは思う。
耐え難い苦しみも耐え、耐え難い悲しみも耐え、
   『結局、こうして俺はここに立っているから』
少し離れた葦原で、春の鳥が鳴いている。
片割れを恋い焦がれて鳴く様に、初めてカカシと気持ちが通じた時の事を思い出す。





やっと静かな時間が戻ってきて、手にした平和を維持するべく、いろんな治安の整備を進めているとき。
あの日は、今日のような穏やかな春の日、ただ、もう土手の桜は咲いていた。
ちょっと曇っていて、その灰色の空は、なお一層、桜の白さを際だたせている。
  「はあ~・・・なんか、やっとここまで来たって感じだってば」
大振りな桜の枝を見上げて、ナルトが嘆息する。
時々薄日が射す桜の花影で、カカシも頷く。
この後も、大きな重要会議が目白押しで、ナルトの言葉はカカシの実感でもあった。
  「なあ先生、ちょっとサボらね?」
カカシは土手から、足下に広がる野原を見ていたが、そのセリフにクスリと笑った。
  「確かに・・・さすがの俺でも、忙殺という言葉を何度も思い浮かべたよ」
真面目なカカシがナルトのこの手の誘いに乗ったのは、後にも先にもこの時だけだった。
  「次の会議は・・・」
  「サクラちゃんとテンゾウ先輩もでるってば」
  「そうか(笑)サボるのは今しかないな」
カカシが笑って土手を降りる。その足取りは軽く、ナルトは初めて出会った時のカカシの若い姿を思い出した。
  「先生、今日はずいぶん物わかりいいじゃん」
  「それはいいけど、先生はやめろよ」
  「やめないよ、カカシ先生!!」
背を向けたまま、確かにカカシは笑っていた。
後を追って土手を降りはじめたナルトの足下から、強い春風が吹き上げて、桜の花びらを散らす。
巻き上がる花びらの渦の奥のカカシに、何故か思わず手を伸ばし、ちょっと歩を緩めたその肩に、簡単にナルトの手が届いた。
カカシはまだ笑ったまま。
ナルトが力を込めて、こちらを向かせて、笑っているのではないことを知る。
カカシは泣いていた。
  「・・・どうした?」
ナルトの声は桜をまき散らす風に紛れる。目で声を読むようにカカシはナルトの唇を見た。
  「すまん、こんな・・」
ナルトの視線に、初めて自分の涙に気づいたように、カカシは慌てて頬を拭う。
  「先生・・・」
  「ははは・・・こんな大変なときに、俺までお前の足を引っ張っちゃ、」
  「先生!!」
ナルトの感情が色濃く籠もって、結果にらみつけるような強い視線にカカシが黙る。
  「謝るのは俺の方だ、先生」
カカシはナルトを見上げた。
  「先生、俺はずっと、ずっと、」
  「ナルト!!」
  「いや、聞けよ、先生!!」
  「ナルト、俺は、」
  「聞いて、先生!!」
空を覆っていた灰色の雲は、時折吹く風に流され、雲の裂け目から透明な光が射し始める。
カカシの顔はその影になっていたが、肩に、髪に、その輪郭に光が淡く乗り、印象を柔らかくしていた。
  「先生も泣くんだな、安心したってばよ(笑)」
  「気が緩んだ・・・ね(笑)」
  「今まで、本当にありがとう、先生」
唇を結んだカカシのまなじりから新たな涙が流れ落ちる。
  「先生も頑張った!!」
  「?」
  「俺も頑張った!!」
カカシが涙が潤んだ目を見開く。
  「だから、ここらへんでさ・・・」
  「・・・・?」
  「俺らもちょっと幸せになっていいよね」
言って、ナルトは、自分の言葉から生じる羞恥に耐えられないかのように、カカシをいきなり抱きしめる。
強い抱擁に、カカシの肺から空気が漏れた。
  「うっ・・・ナ、ナルト・・・」
  「俺、間違って・・・ないよね」
ねえ、ねえと、ナルトは時間を逆行して、子供のようにカカシに甘える。
  「先生も、俺と同じ気持ち・・・だよね」
カカシが、苦しそうな声で返事をした。
  「え?聞こえないってば?」
カカシがナルトの身体を押し返す。やっとできた腕の隙間で大きく息をついて、尋ねた。
  「ナルト、お前、身長何センチ?」
  「・・・・え?えっと183センチ・・・・だけど」
カカシが笑んで、ナルトを抱きしめ返す。
  「でかくなったなあ~・・・」
  「え・・・あ、そうだね・・・」
  「安心して、任せられるね」
  「え?あ、うん・・・・・・なに?」
  「俺の老後」
ナルトが驚いてカカシを見つめる。
カカシはもう笑ってはいなかったが、その空気は柔らかく、切り出したナルトの方が戸惑う。
  「先生・・・いいの?」
  「お前が言ったろう?俺と同じ気持ちだよねって」
  「・・・そうなの?」
カカシは空を仰ぐ。
  「うん」
  「ホントに?本当?」
  「ああ、そうだよ」
カカシが再び土手を降りはじめ、ナルトがカカシにまとわりついて、一緒に降りる。
  「いつから?ねえ、いつから?」
  「ははは・・・俺、ちゃんと言ったぞ」
  「え?え?・・・あ、あ、あの時?!新術開発の・・」
  「そ。俺の方が素直だな、ナルト」
  「は、ははは・・・( 手強い )」
カカシが土手下の道を歩き、ナルトがそれに並ぶ。
その足音は、軽いリズムを刻んで、近くの校舎から聞こえる子供達の歌声に溶け合って・・・・・





あの日の春の音を思い出して、ナルトはぬかるむ道を歩く。
春の土のにおいは、あの日のカカシとセットになって、身体の芯をじんわり暖かくさせる。
  『あの日から、』
俺と先生の気持ちは、本当に一つになって・・・・
今も忙しい二人はすれ違うことも多いけれど、
  「また春が来た」
里は続く。
木ノ葉の里は続く。
若草色のまだ背丈が短い野草の中に、黄色い花が咲いていた。
思わず泥をはねて走り出す。
  「先生、先生、先生!!」
子供の頃の自分をこの腕に抱いて慈しみたい衝動にかられる。
とにかく、生きて、生きて、頑張った。
俺の前で泣いた先生。
すべて収まるところに収まり、背負った宿命は変わらない。
ああ、わかっている。
ナルトは、顔を上げて、帰る道を見る。
一生懸命生きて、そのことに、なんの変わりもないけれど、
  「この感情は・・・・」
以前よりはるかに強く自分を満たす。

大きく飛んで、小川をショートカットする。
草の葉に乗った水玉が弾けて、ナルトの目に輝く。
  「ナルト!!」
不意に声がして、道の先に、カカシがいた。
  「あ!!先生!!」
  「だから、もうそれ、やめろって」
  「カカシ先生!!」
  「もう先生じゃない」
飛ぶように近づいて、カカシの荷物を奪い取る。
  「おかえり、先生」
カカシは諦めたように笑って頷いた。
  「ただいま、火影様」
ナルトも笑う。
  「おう」
全部、守って、愛して、それから、それから、
  「大事にするよ」
いまだに、そんなセリフを照れずには言えないナルトを、カカシも足下を見て受け止める。
泥に汚れたナルトのサンダルの向こうに、柔らかな春の土を見て、カカシは何故か滲みそうになる涙を、我慢していた。



2009.08.02