春泥
春はやっぱり特別な季節だ。
地面に顔を近づける。
ナルトは、水をたっぷり含んだ、ひなたくさい土の軟らかいにおいを、思いっきり吸い込んだ。
土くれの表面は、表面張力で水を纏い、それがキラキラと、まだ浅い春の光を集めている。
顔を上げると、厳しかった季節から解放された景色は、淡いパステル色に変わっていて、ナルトはその暖かな色に目を細めた。
柔らかな道を歩く。
もう子供じゃない身体の重さは、一歩ごとにジュッという音をさせて、サンダルの踵を沈ませる。
道に併走する小川は、夏には水量も減って生い茂る野草に埋もれるのに、今は、鈴の音のような可憐な音をさせて、勢いよく流れていた。
素肌に羽織っただけの白いシャツは、まだ少し肌寒い風を孕み、ナルトは遠くの山を見て、軽く息を吐く。
「先生・・・」
青く霞む連山に、思い出すのはカカシのこと。
今、カカシは、公務で数日前から里を出ていた。
いろんな事があった。
お互い、何度も死にそうになって、それでも気持ちを曲げずに生きてきた。
思い通りに行くこともあったし、そうじゃないことも多かった。
でも、
たぶん、いろんな事は、初めから落ち着く場所をわかっていたんだと、ナルトは思う。
耐え難い苦しみも耐え、耐え難い悲しみも耐え、
『結局、こうして俺はここに立っているから』
少し離れた葦原で、春の鳥が鳴いている。
片割れを恋い焦がれて鳴く様に、初めてカカシと気持ちが通じた時の事を思い出す。
◇
やっと静かな時間が戻ってきて、手にした平和を維持するべく、いろんな治安の整備を進めているとき。
あの日は、今日のような穏やかな春の日、ただ、もう土手の桜は咲いていた。
ちょっと曇っていて、その灰色の空は、なお一層、桜の白さを際だたせている。
「はあ~・・・なんか、やっとここまで来たって感じだってば」
大振りな桜の枝を見上げて、ナルトが嘆息する。
時々薄日が射す桜の花影で、カカシも頷く。
この後も、大きな重要会議が目白押しで、ナルトの言葉はカカシの実感でもあった。
「なあ先生、ちょっとサボらね?」
カカシは土手から、足下に広がる野原を見ていたが、そのセリフにクスリと笑った。
「確かに・・・さすがの俺でも、忙殺という言葉を何度も思い浮かべたよ」
真面目なカカシがナルトのこの手の誘いに乗ったのは、後にも先にもこの時だけだった。
「次の会議は・・・」
「サクラちゃんとテンゾウ先輩もでるってば」
「そうか(笑)サボるのは今しかないな」
カカシが笑って土手を降りる。その足取りは軽く、ナルトは初めて出会った時のカカシの若い姿を思い出した。
「先生、今日はずいぶん物わかりいいじゃん」
「それはいいけど、先生はやめろよ」
「やめないよ、カカシ先生!!」
背を向けたまま、確かにカカシは笑っていた。
後を追って土手を降りはじめたナルトの足下から、強い春風が吹き上げて、桜の花びらを散らす。
巻き上がる花びらの渦の奥のカカシに、何故か思わず手を伸ばし、ちょっと歩を緩めたその肩に、簡単にナルトの手が届いた。
カカシはまだ笑ったまま。
ナルトが力を込めて、こちらを向かせて、笑っているのではないことを知る。
カカシは泣いていた。
「・・・どうした?」
ナルトの声は桜をまき散らす風に紛れる。目で声を読むようにカカシはナルトの唇を見た。
「すまん、こんな・・」
ナルトの視線に、初めて自分の涙に気づいたように、カカシは慌てて頬を拭う。
「先生・・・」
「ははは・・・こんな大変なときに、俺までお前の足を引っ張っちゃ、」
「先生!!」
ナルトの感情が色濃く籠もって、結果にらみつけるような強い視線にカカシが黙る。
「謝るのは俺の方だ、先生」
カカシはナルトを見上げた。
「先生、俺はずっと、ずっと、」
「ナルト!!」
「いや、聞けよ、先生!!」
「ナルト、俺は、」
「聞いて、先生!!」
空を覆っていた灰色の雲は、時折吹く風に流され、雲の裂け目から透明な光が射し始める。
カカシの顔はその影になっていたが、肩に、髪に、その輪郭に光が淡く乗り、印象を柔らかくしていた。
「先生も泣くんだな、安心したってばよ(笑)」
「気が緩んだ・・・ね(笑)」
「今まで、本当にありがとう、先生」
唇を結んだカカシのまなじりから新たな涙が流れ落ちる。
「先生も頑張った!!」
「?」
「俺も頑張った!!」
カカシが涙が潤んだ目を見開く。
「だから、ここらへんでさ・・・」
「・・・・?」
「俺らもちょっと幸せになっていいよね」
言って、ナルトは、自分の言葉から生じる羞恥に耐えられないかのように、カカシをいきなり抱きしめる。
強い抱擁に、カカシの肺から空気が漏れた。
「うっ・・・ナ、ナルト・・・」
「俺、間違って・・・ないよね」
ねえ、ねえと、ナルトは時間を逆行して、子供のようにカカシに甘える。
「先生も、俺と同じ気持ち・・・だよね」
カカシが、苦しそうな声で返事をした。
「え?聞こえないってば?」
カカシがナルトの身体を押し返す。やっとできた腕の隙間で大きく息をついて、尋ねた。
「ナルト、お前、身長何センチ?」
「・・・・え?えっと183センチ・・・・だけど」
カカシが笑んで、ナルトを抱きしめ返す。
「でかくなったなあ~・・・」
「え・・・あ、そうだね・・・」
「安心して、任せられるね」
「え?あ、うん・・・・・・なに?」
「俺の老後」
ナルトが驚いてカカシを見つめる。
カカシはもう笑ってはいなかったが、その空気は柔らかく、切り出したナルトの方が戸惑う。
「先生・・・いいの?」
「お前が言ったろう?俺と同じ気持ちだよねって」
「・・・そうなの?」
カカシは空を仰ぐ。
「うん」
「ホントに?本当?」
「ああ、そうだよ」
カカシが再び土手を降りはじめ、ナルトがカカシにまとわりついて、一緒に降りる。
「いつから?ねえ、いつから?」
「ははは・・・俺、ちゃんと言ったぞ」
「え?え?・・・あ、あ、あの時?!新術開発の・・」
「そ。俺の方が素直だな、ナルト」
「は、ははは・・・( 手強い )」
カカシが土手下の道を歩き、ナルトがそれに並ぶ。
その足音は、軽いリズムを刻んで、近くの校舎から聞こえる子供達の歌声に溶け合って・・・・・
◇
あの日の春の音を思い出して、ナルトはぬかるむ道を歩く。
春の土のにおいは、あの日のカカシとセットになって、身体の芯をじんわり暖かくさせる。
『あの日から、』
俺と先生の気持ちは、本当に一つになって・・・・
今も忙しい二人はすれ違うことも多いけれど、
「また春が来た」
里は続く。
木ノ葉の里は続く。
若草色のまだ背丈が短い野草の中に、黄色い花が咲いていた。
思わず泥をはねて走り出す。
「先生、先生、先生!!」
子供の頃の自分をこの腕に抱いて慈しみたい衝動にかられる。
とにかく、生きて、生きて、頑張った。
俺の前で泣いた先生。
すべて収まるところに収まり、背負った宿命は変わらない。
ああ、わかっている。
ナルトは、顔を上げて、帰る道を見る。
一生懸命生きて、そのことに、なんの変わりもないけれど、
「この感情は・・・・」
以前よりはるかに強く自分を満たす。
大きく飛んで、小川をショートカットする。
草の葉に乗った水玉が弾けて、ナルトの目に輝く。
「ナルト!!」
不意に声がして、道の先に、カカシがいた。
「あ!!先生!!」
「だから、もうそれ、やめろって」
「カカシ先生!!」
「もう先生じゃない」
飛ぶように近づいて、カカシの荷物を奪い取る。
「おかえり、先生」
カカシは諦めたように笑って頷いた。
「ただいま、火影様」
ナルトも笑う。
「おう」
全部、守って、愛して、それから、それから、
「大事にするよ」
いまだに、そんなセリフを照れずには言えないナルトを、カカシも足下を見て受け止める。
泥に汚れたナルトのサンダルの向こうに、柔らかな春の土を見て、カカシは何故か滲みそうになる涙を、我慢していた。
2009.08.02