鳴門の案山子総受文章サイト
春はもう終わったのに、まだ夏じゃない。
ツーマンセルの任務明けの午後。
里が見下ろせる小高い丘に、座り込む。
長い睫毛を伏せて指先をいじる彼の横顔の向こうに、
暗い宇宙まで見えそうな透明な空がどこまでも広がって、
ああ・・・
単純な二点の遠近に、私は目眩を覚える。
光を乱反射するうつむいた象牙色の皮膚に、その事実以上の非科学的な効果があることを、
私は、認めざるを得なかった。
長い時間を一緒に過ごして、
それは任務という無味乾燥な、
色にすれば灰色に押し込めた押し込められたようなスペースでの話だけど、
実際は、血の赤が外からは見えないのと同じ理屈の、
ちょっとした刺激だけで弾けかねない関係の時間。
指先の乾いたささくれをちぎって、
淡い色の唇が、その作業につられて尖ったり閉じられたりしている。
目を奪われて、流れる風に止まる時間を感じて、
気づくと先生は、いつの間にか私に顔を向けていた。
どうした?と言わないけど、目がそう笑って、
私の方に左手を伸ばして、その手が私の腕をポンと叩く。
こんなに好きだけど、
先生とどうかなることをずっと考えてきたけれど、
私は、何でもないと、笑む。
私の目は、先生を見ながら、その向こうを眺めた。
先生が男の人に見えてから、もう3年経つ。
私は、やっと18になった。
夏をたぐり寄せつつある空は、明るく高く、
自分の視線がそれを貫いてまっすぐあることに、
私は、深く、深く・・・・
満足していた。
「うれしかったよ」
先生が顔を元に戻し、またその横顔を見せる。
これから来る季節に、そのラインが投影されて、私はちょっと目を瞬いた。
時折、電撃の様に閃く何かを私は、でも、今日は客観できている・・・
「何が、ですか?」
私の言葉を振り切るように、先生が向こうを見る。
ああ。
私と同じ空を見ている。
「サクラの存在」
むこうを向く唇から発せられた音は、ゆっくり空中を震わせながら、私の耳で言葉になった。
むこうを見たままの先生に、私はゆっくり頷いた。
強烈な共感。
強烈な同胞感。
これ以上はない、強い、この。
そしてそんな嘘。
全部ぶちまけそうになる身体の濁流は、グルグル、私の中を巡って、
何度も皮膚を破りそうになった。
私は詰めた息を宙に吐く。
「私も、先生がいてくれたから、すごく、」
言えたのはそこまでだった。
先生が弾かれたように振り向いて、私を見る。
頭の中で、今の自分のセリフを繰り返すけど、どこもおかしくない。
私の、本当の、本当の、本当の、気持ちなんて、微塵も表現してない。
でも、先生は、私の音が先生の耳で、本当の言葉になったのを聞いたみたいだった。
先生の手が私の方に伸びてきて、
同じ空間にいて
同じ想いを抱いていたから
その確信が、今、はっきり下りてきて、
先生の手が私の髪に差し込まれて、私の頭部をそっと支えても、私は驚かなかった。
「酷い状況もあったけど、君が俺を踏ん張らせた」
何かをさらっと読むような温度が低いセリフだったけど、
道徳も、常識も、社会性も、そんなものをすべてかなぐり捨てた、背徳に満ちた言葉だった。
「私だって同じ」
私のセリフを目で読むように、先生は視線を動かして、窒息しそうに言った。
「キスしていい?」
先生の語尾がまだ音のまま、私の耳に触れる前に、先生の唇が私のそれに触れる。
銀髪の向こうに、暗い宇宙を透かした、綺麗な綺麗な青空が広がって
私の指が、その銀糸を掻き乱すのを見た。
先生。
嬉しいのか、悲しいか、切ないのか、もうわからない。
透明な色が、涙ににじむ。
私の身体から力が抜けて、二人の身体は、濃くなり始めた緑の草の上に倒れ込んだ。
先生の腕が私を強く抱いて、私は何かを引き留めたくて、何かをそのままつなぎ止めたくて、何度も「先生」と言った。
「ごめん、サクラ、こんなこと・・・」
こんなことするつもりじゃなかったのに・・・って?
私は、先生の顔を見上げる。
先生も泣いていた。
「先生・・・」
「そうだ。俺は先生のまま、君を見守るべきだったのに」
こんな時代に。
「サクラを・・・惑わせるようなこと・・・して、ごめん」
やっと18才になったのに。
新しい戦争が始まった。
いろんなモノを捨てて、捨てて、捨てて。
何度も修羅場をくぐり抜けてきたから、もちろん、わかってる。
これからも捨てて、捨てて、捨てていかなきゃ、
大事なモノを守れないってこと。
これが映画なら、互いの胸の奥に想いを押し込んで、それが、また二人を奮い立たせるんだろう。
そんな素敵な展開になるなら、本当に私は幸せ。
でも、実際は、私の指が先生の涙を拭い、先生の手が私の頬を撫で、
死の匂いがする宇宙を見上げる。
互いの愛しい気持ちは、人生を変質させる。
もう後戻りできないとこまで行ってしまったら、
この激しい焦燥に、私は勝てる気がしない。
「まだ」
私の声は、日が落ち始めた空に、どこまでも広がっていく。
「まだ、戻れる」
影になった先生の顔も、静かに頷いた。
もう一度、キスしたかった。
もう一度、抱きしめたかった。
でも、私はゆっくり起き上がり、先生も私のその動きを助ける。
まだ戻れるって言ったくせに、私の心は、もう引きちぎれる痛みに絶叫しかけていた。
私の手は、無意識に先生の認識票を握っていて、先生は無言でそれを割ると私にくれた。
私も同じようにする。
こんなくだらない儀式が、でも、私の心をかろうじて、正常にしていた。
分割した認識票の尖ったエッジが私の指を傷つけて、静かに玉のように盛り上がる赤は、
吹き出した激情には、もう、見えなかった。
里に下りる道を歩きながら、
「サクラは、南西の境界だね」
と、諦めの悪い自身のセリフに、先生が自嘲を越えて開き直る。
明日から二人、違う戦場に赴く。
「先生はずっと北ね」
先生につきあって、私も先生の動向を確認する。
静かな足音が、今は大地に静かに響いて、そして、空気を静かに揺らして、
自分や先生のその生きている振動を、私の記憶は取りこぼさないだろう。
そして、並んで歩く二人の足並みは、いつもの空気を取り戻していたから、
私は言わなかった。
遠くに、溶けるような藍色の宇宙が広がって、星が煌めき始めていたけど、
私は言わなかった。
風が二人の間を抜けて行く。
先生の髪が静かに乱れて、
「先生、」
私の声は喉の奥で音のまま消えたから、振り向いて寂しく笑んだ先生に、
今日は、七夕ね
って、私は、言えなかった。